野丁場の左官の誕生
挾土
僕は昭和37年生まれで、野丁場(ビルなどのコンクリート仕事)の左官屋の息子です。やっぱり野丁場を語れないと、左官全体のことは見えてこないと思うんです。古い記憶にあるのは小学生の頃、鉄板の上でスコップ右左右左と動かし、会社の若い兄ちゃんたちがコンクリートを練っていたこと。ダルマミキサーがあって、やたら長い練り鍬(くわ)があったなと思い出します。どうも当時、飛驒ではしょっちゅうプラスターを塗っていたと思うんです。もうちょっと大きくなると、(壁に養生のために)新聞紙張って、左官はリシンの吹付けもやっとった。親父が目の中に砂が入ったとかいって、いつも目を洗っとった記憶もあります。僕の左官の始まりの記憶はそこですね。
それ以前の左官屋はどうやったのか。セメントはいつごろ出てきたのか、セメント以前の主になる材料はプラスターだったのか、僕はそういったことさっぱりわからないんです。でも親父は「俺は、レンガを積んで、飯炊くかまどをつくっていた」とか、「それで人造(人造石研出し)仕上げを覚えた」みたいなことを言っていた。たとえば、昭和20年代とか30年代というのは左官はどういう仕事やっていたんですか、藤沢さん。
藤沢
まあ、ラス(下地金網)にモルタル塗りが主体で、(建物の)外部やっていましたね。ところがセメン(セメント)が十分ありませんので、セメン1袋につき、代用土を、ひどいときになると半分以上混ぜ込んで、それでモルタルをつくる。それで外部を塗っていた。戦後の話。
岩嶋
ゼネコン的に言うと昭和35年くらいはユンボがなかったので、(地面も)手掘りだった。名古屋ですよ。コンベアで。伊勢湾台風(昭和34年)前くらいまでは、プラントもないので、たぶんコンクリートは手打ち。人夫が練って、桟橋つくってネコ(一輪の押し車)で運んだ。うちの会社の創業者が竹中(工務店)さんの名古屋支店の所長をやってた人間で、昭和24年創業なのでちょうど65年になるんですけど、名古屋に松坂屋ができるということで、その頃に初めて鉄筋が出たんです。鉄筋が出るまでは、野丁場のモルタル左官なんていなかったんですね。土壁の左官だけで。
挾土
セメントが出てきて、左官屋が砂を混ぜて鉄筋コンクリートの外部にモルタルを塗りだしたのはいつくらいなんですか。
藤沢
そうだね、私がちょうど25〜26歳の時分(昭和30〜31年)、戦後6〜7年たったくらいにはモルタルが十分出まわるようになって、建物のタイル下、それから部屋のなかのモルタル仕上げもやっていた。とにかくコンクリートの躯体の精度は非常に悪かった。
挾土
昔の板の型枠でつくられた古い建物見ると、型枠が板目になってるコンクリート壁があるけど、そのコンクリートの精度がとても悪かったということですね。それを補修する必要があった。そこでまず、左官が必要になったんですね。
藤沢
野丁場の左官が幅をきかしたのがその時分。つまりコンパネ(コンクリート型枠用合板)の出る前。私がへそ定規つくった時分だからね。やっぱり昭和32〜33年くらい。その前から塗っていましたけどね、それまでは代用セメンてやつ。セメントに(代用)土を混ぜるのが代用セメント。ところがこれ外部仕上げると弱いんですよ。浮きやすい。
挾土
そもそもまず、そんな悪い配合の左官をやって、嫌われたんですね。
藤沢
「落ちる、落ちる」と。天井塗ったら落ちた、壁塗ったら剥がれた、という話がその時分にはよくあった。悪いことというより、それよりほかに方法がなかったからそうなった。
岩嶋
材料ないから、塗りやすいからそうなっちゃった。ケチで言ってるわけではない。セメントはそれくらい高かった。
藤沢
でも、土が混じっているから浮いちゃう。塗りやすいように少し土を混ぜるなら、これは強度が上がります、私の経験から言うと。ミキサーはあったけどね、名鉄ビルなんかやるときは、これくらいあるような(両手を広げて)、八才(はっさい)というやつ。とにかく職人が10人くらいおらんことには移動できんくらいのミキサーを現場に持ち込んで、セメントを捏ねてたんです。
【注 才=1尺立方 (30.3×30.3×30.3㎝)】
挾土
僕も34歳くらいまで、八才のミキサー使っていました。ユニック(トラックに搭載したクレーン)じゃないと運べない。ベルトコンベヤーでサイロからミキサーに砂を落として、40キロのセメント4本ずつ練った。当時は「さくい(粘度の低い)」モルタル使えということだったので、一度ミキサーでセメントと砂を練ると1回で一輪車で16台……。34歳が最後ですね、それ以降はどんどんビルも鉄筋コンクリート造より鉄骨S造が増え、コンクリート補修の仕事も減ってきて、もうミキサーがいらなくなった。
大類
当時は、土間もやってたんですね。
挾土
昭和30年代のモルタル以前の左官屋は、なにをやっていたんでしょう?
藤沢
コンクリ打つ場合は一発仕上げだね、当時から。名古屋駅前のこの間取り壊された毎日ビル豊田ビルあたりはね、モルタル使うのもったいないから、コンクリ打ったヤツをそのまま。いまも直仕上げってやっとるでしょ。その時分から土間屋なしで左官ばっかりでやれと言われ、たいへんだった。ということは、モルタルなんてどんどん使えない。
挾土
コンクリート一発だった。昔は、逆にね。
藤沢
亀井組で開発したわけ。普通の左官屋はようやらなんだ。うちらが駅前ビルや名古屋城でコンクリート一発仕上げをやり始めて、みんなが覚えて広がったのね。
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「ドロマイトプラスターとモルタル薄塗り、リシン吹付け」
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ごあいさつ
座談会メンバー紹介
■第1部
戦後から昭和30年代
—まるごと左官で仕上げた時代
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