3年ほど前に左官有志であつまって、日本左官会議をつくりました。
2015年から議長をやらせてもらうことになり、自分たちがいまどういう状態なのか、戦後70年というけれど、左官の70年はいったいどういう歩みをしてきたのか、ざっくばらんに話してみてはどうかと思いました。
各地域の左官組合の創立何十年という記念誌を見てみても、歴史をどこかかっこよくつくってしまっている部分がある。それがどうと言うことではなく、ここではもっと本音で自分たちの業界がどうだったかを一度振り返ってみたいと思いました。
いま、左官を取り巻く現状は厳しい。
本当に時代が移り変わっている中で、注文住宅ではなく建売住宅が隆盛になってきて、家づくりにまったく左官がないという状況です。
左官だけでなく大工もそうだし、建具も同様。仏壇だってまったく売れなくなっています。日本の職人の未来は、厳しい。
今回、集まってもらったのは、九州から東北までの、左官と左官に関わる仕事をしている人たちです。こういうメンバーで話し合えば、業界にとって有益な話になるのではと、声をかけて全国から集まってもらいました。戦後からいま現在までを語れば、自分たちがどういう動きでここまで来たか、一つの記録になる。それをゆっくりとHP上で発信していく。そうしたら全国の若い人が見るチャンスがある。
これから先どうしていったらいいか、左官の「未来」を考える材料を提供することになれば、と思います。
職人社秀平組代表。1962年生まれ。岐阜県高山市出身、在住。熊本、名古屋などで修行後、地元に戻る。83年技能五輪全国大会左官部門で優勝。
30代までは野丁場の左官としてビルなどを担当し、美術館やホテルといった大きな現場も仕切る。2001年、「職人社 秀平組」を設立。土、石灰、砂といった自然から得られる素材を中心とした仕事を本格的に始め、物語性のある独創的な壁を制作。個展、ディスプレイ、執筆など活動の場を広げている。自然を畏怖しつつ、飛騨の職人の技を結集してつくる「歓待の西洋室」プロジェクトは02年から継続中。
挾土
とりあえず、まず参加メンバーを僕が紹介して、自己紹介してもらいたいと思います。
(2015年6月現在)
挾土
福岡から来てもらった左官の荒木さんです。僕が知る限り、これほど実直で妥協をゆるさない昔型の、典型的な九州男児の左官屋さんはいません。土ものもやるしオールラウンドで、とくに昭和の一時期華やかだった洗い出し、人造石研ぎ出しなどでは右に出る人とはいない人です。
荒木
荒木です。秀ちゃん、ほめすぎじゃないですか(笑)。私が、心がけておることはまっすぐなものはまっすぐ、精度とスピードを左官は追い求めなくてはいけないということ。一緒にやる職人にもそういうことを求めながらやっています。うちは文化財の仕事が多いのが特徴です。大分の国宝の宇佐神宮の改修が2015年3月に終わりました。福岡にある重要文化財、宗像神社もやりました。それから洋館の修復工事などもやらせてもらっています。
挾土
宇野先生は愛知産業大学の先生で、設計事務所もやっている。木造建築も研究されています。ちょっと設計的な立場で参加していただきたく、無理言ってきてもらいました。
宇野
宇野です。設計では伝統的構法、木組みで土壁の建築をやっています。研究では、土壁の温熱環境関連です。2012年、大江戸左官祭りのセミナーに参加して、そこから左官の方々と幅ひろく知り合い日本左官会議に関わるようになりました。学ぶところが多く、自分の建築に対する世界が広がりました。今回の座談会も興味深く、左官の背景を知れるのかなと楽しみにまいりました。
挾土
名古屋から来た左官の川口正樹くん。20代に一緒に仕事していました。野丁場もわかるし、せっこうから土ものからやる、荒木さんとはひと味違った左官。オールラウンドになんでもできる人です。
川口
この座談会のことを秀平くんから聞いてすごく楽しみに来ました。現在は名古屋で住宅ばかりやっています。いろんな人と話ができるのが楽しみだなあと思ってやってまいりました。
挾土
茶室ばかりやっているという左官がいても、京都という王国でなら驚かない。でも、山本さんは京都で超一流の茶室をやりながら、野丁場でビルもやっている。このギャップが非常に面白いし、まためずらしい。そこからなにか世の中が見えているんじゃないかと思って、来てもらいました。
山本
京都から来た山本です。仕事はなんでもやりますが、町場(住宅など)の細かい仕事が先だったので、野丁場もできる。野丁場を先に覚えていたら、多分町場の繊細な仕事はできなかったのではないかなと思います。話は苦手ですが、せっかく呼ばれたので、自分の経験をお話できればいいなと思います。
挾土
宮城県石巻市から来てもらった今野さんは、東日本大震災で被災、身内を亡くし、仕事の道具も全部無くした。壊滅的だった状況から頑張っています。親父さんも左官で、東北のいまの状況が分かるし、被災してるからこそわかる日本の現状があるだろうと、来てもらいました。
今野
津波から4年経ってちょっと落ち着いてきて、見るものも変わってきました。流されてすべてサラになって経験から、見えてきたものがあることは、ある意味でよかったかもしれないと思います。左官屋の現状は、きれいごと言っている場合じゃないくらいひどい。そういう状況を話し合えたらいいなと思っています。
挾土
滋賀から来てもらった小林隆男さん。町場の左官さんですが、社会に関する客観的な目を持っていて知識が豊富で人脈が広いということと、京都ではなく名古屋でもないという地域柄から、地方の現状を語ってもらいたく来ていただきました。
小林
小林です。顔が広いといっても、表面積はさほど皆さんと変わらないと思いますが(笑)、左官を通じていろんな方と出会って、左官の素晴らしさを味わっています。技術という以上の左官の楽しさを、皆さんと分かち合えればと。今後、東北のほうへ仕事で行きますが、そこでも人とのつながり広がりを持てたらいいなと思っています。
挾土
岩嶋君は僕の高校の同級生で高山から名古屋に行き、ゼネコンの現場監督としてたたき上げて、いまは名古屋の工務店の工務部長です。発注からお客さんとの折衝から、経営的なことをすべて仕切る工務部長なので、工務店の立場でいろんな意味で語れるだろうと、「いやだ」というところを来てもらいました。
岩嶋
岩嶋です。とにかく来てくれということで来ました(笑)。現場監督から始めて35年。いま清水工務店の工務部長というか営業部長で、積算して注文書切っています。今は、左官屋さんにとって厳しい状況です。住宅一軒3000万〜5000万の予算でも、左官工事は30万か20万くらい。珪藻土塗ったりちょっと漆喰塗ったりしたら100万超えるんですけど、もうそうした現場も少ない。こんな状況でやっていけるのか、という厳しい目で話をさせて頂ければと思います。
挾土
山形から来てもらった大類勝浩さん。講演に呼んでもらい知り合いました。親父さんも左官屋で野丁場やっている。頭がいい、左官業界全体が見える人で、日左連の青年部でも活躍している。ジェントルマンでジョークも通じて、山形にいながら業界事情も相当知っていると思ったので、無理を言って今日は来てもらいました。
大類
日本建築家協会(JIA)に混ぜていただいていまして、左官の素晴らしいところを一生懸命話すが、伝えきれないところがある。そんな折りに講演会に秀平さんに来てもらおうと思って、2015年4月に山形の文翔館で講演してもらい、大変好評でした。日本左官会議は全然わかんなくて、ある人からは「気をつけろよ」と(笑)。じゃあ気をつけてきますといって、来ました。
挾土
この方を呼ぶのに苦労しました(笑)。「俺たち左官の70年」にふさわしい、たたきあげの職人で、ご高齢ではあるが頭がしっかりしていていろんな状況がわかっている人。本当の野丁場、本当の「時代」を知っている左官がひとりいないと成立しないと来ていただいた名古屋の左官会社の社長です。84歳でいまも現役です。用事で今日の夕方には帰られますが、さまざまな経験を語っていただきたいと思います。
藤沢
藤沢事業所の藤沢です。私が左官の道に入ったのは、大東亜戦争(日中戦争と太平洋戦争のこと。1937〜1945年)の終わった翌年、数えの15歳でした。左官っておもしろそうだからやってみようと思った。戦争で亡くなったりして親方が見つからなかったけど、住宅営団が戦後引揚者を収容する仮設住宅を作るために職人を養成するというので、そこに応募しました。親方なしだから苦労しましたね。竹中工務店の下請けをしていた「亀井組」という全国的な会社の名古屋の支店にいたんですが、私が26〜27歳のとき、「藤沢、お前、名古屋で通産省の建物やるから、職長でやってみろ」と言われた。監督さん(竹中の工事長)に「ここの左官工事は、ぴりっとゆがんでもやり直しだからな。いいな。大工がカンナをかけたように仕上げろよ」と言われたときにはドキッとしました。当時左官でそんな仕事ができる職人はほとんどいなかった。三日間考えた結果が、ご存知の「ヘソ定規」。いまや左官がみんな使っています。実は私が27歳のときに工夫・開発して世に出たんです。特許も何もとっていませんがね。そのうち亀井組の若いのでええ仕事するのがいるということで評判になって、名古屋の名古屋駅前ビル、名鉄、豊田、毎日、当時一番大きな建物だった中日ビルなど、30代前半でしたが、多いときは100人くらい職人を使って職長でやったものです。
挾土
最後になりましたが、左官業界をずっと取材してきた小林さんです。皆さんご存知の『月刊左官教室』の元・編集長です。
小林
小林です。たまたま秀平さんが日本左官会議の議長になり、この70年を振り返るというお話で、左官の歴史は1300年か1400年ですが、最後のいちばんきつい70年を生きている職人さんがどういうことを考えているかが聞けるのではないかということで来ました。私は左官ではないのですが、『左官教室』という雑誌を45年くらいやってきて、外側から左官の業界を見てきていたので、おかめ八目じゃないですが、外の目で見ていたことをお話できればと思い参加しました。