わたなべ・せいじ
1965年宮城県石巻市生まれ、在住。いまやマイナー米となったササニシキを偏愛する米農家5代目、兼フリーライター。農、林、漁など生産の現場、それらと分かちがたく結ばれた食や暮らしの文化を、東北6県に訪ね報告する。執筆誌歴〜月刊家の光・月刊地上(家の光協会)、木の家に住むことを勉強する本・季刊『住む。』(泰文館/農文協)、隔月刊コンフォルト(建築資料研究社)、旬がまるごとマザーフードマガジン(ポプラ社)、北上川物語(三陸河北新報社)ほか。
山形はアツかった。いろいろな意味で、です。暑くて名物の冷やしラーメンがおいしかったし。
もとい!塗り壁の厚さについて盛り上がり、出会いと対話が熱を帯びていました。
住まいと建築をとりまく環境が刻々と変わっていく中で、確かめあえたのは、塗り壁の豊かさ揺るぎなさ。
左官仕事をこれから先につないでいく手応えを感じられる会でした。
参加受付けの教室に、即席のボード下地が2台&木舞掻きの枠が1台並んでいました。聴衆がゆるゆると集ってきたところで、壁塗り実演スタートです。
さり、さり、ざり、ざり……本職の手並みは歯切れよく空気を刻み、鏝の先で土が生きもののように形を変えます。そこから「はい、やってみて」と鏝&鏝板を渡された若者。「え!?」と戸惑いながらも、手の動かし方を教わり挑戦していました。ざりっ………ざりっ………時に「ぽとっ」という音も交じるのはご愛嬌。鏝板と鏝をほぼ同時に煽るのが「のせる」コツですが、ふだんありえない動きをさせられた両手首が「おいおい!」と驚いているんです。
そう、思ったよりもおされなヤング!の参加が多い。左官が若者の興味の対象になるなんて、これは個人的にうれしい大発見でした。東北芸工大を会場にした効果も高いのでしょう。プロダクトデザイン科に学ぶ友人の息子君にも会えるとは……。さらにヤングな女子高校生も居て、キラッキラの真剣な眼で「左官になる」と決意を周囲に表明しているではありませんか!若い世代がコンタクトできる機会、今後もどんどん増やしてほしいものです。
シンポジウムに先だって、左官の実演と体験会が開かれました。
土を鏝にとるのがまず難しい。でも塗るのは楽しくて、誰もが夢中になってしまいます。
昔から土壁の下地として使われてきた小舞掻きも体験。写真では、東北地方で多く使われるヨシ。
さて、いよいよシンポジウムが開会。左官5名にゲスト・オブザーバーとして竹内昌義さんが参加します。冒頭、挾土秀平議長は、率直に危機感を訴えました。 「左官は高度成長期、一時的に22万人にもなりましたが、いま5万とか、6万人とか。近年は自然災害が起きる度にメーカーの仕事が増えて、職人の仕事は減っています」と。
減り方は在来木造の周辺に務める職人の中でもとりわけ著しいとか。そもそも仕事が減っていると、東日本大震災の被災地である石巻の左官、今野等さんも語ります。
「震災前のほうが仕事がありました。住宅を流された人たちが再建する家はクロス壁。とにかく急いで終わらせようとする」
背景に上げられる理由は、やはり「コストダウン」につきつめられていくものが多いようです。左官仕上げに要する人工の数、クラック(割れ)の派生やクレーム対応、塗って乾くまでの天気待ちと工期、などなど。竹内昌義さんは「一般論ですが、工事現場をできるだけ短く速く上げたほうが建設会社は儲かるんですね。設計者が一番戦わなければならない相手はお金」と言い切りました。
ボード、サイディング、ユニットバス……大工の仕事も木部材を刻んで組む職人的なものではなく、ハウスメーカー関連の工法と技術仕様に応えられる大工の作業にすっかり取って代わられつつあります。止められずここまで来たそんな大きな流れも、つまるところはユーザーの希望から生じていること。「カタログを見せて選んで買う」という域を脱しない限り、薄れゆく生活文化をふりかえるのはどうにも難しそうに思えます。
※座談会「俺たち左官の70年」第一回にもリンクする内容があります。ご覧ください。
会場は東北芸術工科大学の講義室。会場も一体となる雰囲気でした。
プロローグとして、戦後の左官を振り返り、現在の位置付けを示す挾土議長。
右から、今野さん、大類さん、原田さん。
仕事が尽きる。これではいけない、と思い立った今野さんや名古屋の川口正樹さんは、自分から打って出ました。川や海流は一方への単純な流れだけが占めているわけはありません。「やっぱり土壁はいいね」「漆喰ってきれいだ」と見直してくれる人はいるはず。塗り壁の良さって、なんでしょう?壇上でキャッチボールが続きます。
「被災したあるお客さんの家を、流された家が立っていたその土地の土を使って塗らせてもらったんです。喜んでくれたし、仕上がりを見て工務店の姿勢も変わってきて、内覧会とかをきっかけにだんだん仕事が増えてきました」(今野さん)
「5年くらい前まで苦しかったんですけれど、一度、中も外も総塗りの新築工事をやらしていただきました。かなり割れも入って何回もやり直して赤字も出しました。そこで諦めたら僕より下に続く人たちの壁の仕事はなくなります。いろいろ塗りの配合を考えて、最近は本当に割れなくなりました。お客さんには喜んでいただいてるし、次のお客さんもその壁を見に来てくださって、どんどん増えていった」(川口さん)
「塗り壁が大人から子供まで心を癒やしていることを、手紙をもらったりして実感します。静寂な雰囲気を感じるとか、空気が違うとか、これも7ミリ8ミリと塗ることで厚みを帯びているから。やっぱり左官本来の、最大の魅力は厚塗りだと思います。どんなにいい職人でも微妙なムラがあるんですよね。でもそのムラは、本当に腕のいいムラじゃないといけないんじゃないか」(挾土議長)
「まず自分たち塗り手がどれだけ壁を好きで塗れるかですね。それがあってお客さんや関わる人たちを感動させられる思います。ひび割れも他とは違うと思える美しいひび割れがある。その美しさを我々がもっと好きになって、どれだけ敏感に感じ取れるようになれるか」(小林隆男副議長)
左から竹内さん、川口さん、小林さん、浦上さん。
シンポジウムの後半は、会場を巻き込んでのディカッションとなりました。
いわゆる薄塗りを求められることが多い今、厚塗りを目指したい左官は何をなすべきか。議長は驚く提案をしました。少なくとも僕は驚きました。「左官業界は薄塗りを充実させることが一番の近道じゃないか」……!? 厚塗りが魅力とさっき言いましたよね?180度方向転換? いやいや真意をよく聴き続けると、これはセンター方向に投げたボールがキャッチャーミットに収まる新魔球。コペルニクスが腹を抱えて笑っているようです。
「左官が本当に質の高い素材感のある薄塗り材を造って、薄塗りの精度を高めて設計士にアピールしていくことが、厚塗りへのドアになるんじゃないかと。単価はちょっと下げ気味、発注しやすい、仕事を取りやすい。お客さんや設計士の目も肥えていきます」
議長の言う、左官が視野に収めておくべきは、あくまでも厚塗り。しかし塗装業とはまったく違う出来栄えの「薄塗り左官壁」を編み出し供することから、「ちょっと堅い?じゃあもう少し厚く塗ろうよ」と提案しやすい空気を醸していこう、という呼びかけです。Over the top ―限界を自ら引くなという鼓舞です。竹内さんからは次の発言。
「いま普通の人に『新建材はいやだね』という感覚があるんですよ。ちゃんと厚塗りなら調湿効果もあるはずで、快適さが数値化できれば納得する設計士は多いんじゃないか。
左官とデザインの融合も必要じゃないかな。伝統建築はもちろん必要だし技は素晴らしいのだけれど、もうちょっと(現代に)フィットした例があると広がるし、設計士にも訴えると思うんですよ。その時何を読んだらいいのかというと、(隔月刊)コンフォルトなんです。建築設計士も読んでいて、あの感じが左官屋さんにも広がっていけば……」
えー、会場では建築資料研究社の関連書籍を販売しております。どうぞ皆様お手にとってぜひとも……。と私が売っていた訳ではありませんけれど、これは竹内さんリップサービスなどではありません。自信あります。そして議長はこう結びました。
「石巻では今野さんみたいな赤い土を塗って喜ばれたとか、正樹くんの名古屋に行くとまた違う赤土があるとか。関東に行けば漆喰、北陸と東北の土蔵は黒磨きだ、大阪に行けば座敷が利休の壁だ、三重の鉄磨きだ、九州の漆喰彫刻だって、その土地が前面に出てくる。自分の土地にはどんな左官がいるの?となって、それが住宅に現れると個性が生まれてくる。すると誇りが出てくる。誇りが持てると仕事が増える。そういう流れに持ってくれば左官は終わんないと思うんだよね。地域の左官が、地域の自然素材という、地面と密着している左官仕上げをやっていれば、設計士も一般の人も使いたくなる。まったく面白い世界になると思う」
「薄塗りも精度を高めるところからアピールしよう」と挾土議長。
開催日 | 2017年7月15日(土) |
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会場 | 東北芸術工科大学 |
プログラム | 総合司会:宇野勇治(建築家・愛知産業大学准教授) [プロローグ] 俺たち左官の70年——戦後、左官が歩んだ道 挾土秀平(左官) [エピソード] 地域地域の風景に合った最高の仕上げ。自分が仕上げた最高の仕上げ。東北の仕上げを中心に。 今野等 大類勝浩 原田正志 小林隆男(以上 左官) [公開討論会] 左官塗り壁はどのように存在していけるのか 小林隆男 今野等 大類勝浩 川口正樹 原田正志 浦上稔晃(以上 左官) ゲストオブザーバー:竹内昌義(建築家・東北芸術工科大学教授) 進行:挾土秀平 [エピローグ] 左官の終焉は近いか 「中塗りして8mm」の壁 挾土秀平 |
主催 | 公益社団法人日本左官会議 |
協賛 | コンパス会、一般社団法人山形県建築士会、山形県左官工業組合青年部、LIXIL | 協力 | イケダコーポレーション、稲田亀吉商店、建築資料研究社/日建学院、公益社団法人日本建築家協会 東北支部 山形地域会 |
山形市中心部から車で40分。江戸時代から最高品質の紅花が栽培されてきた河北町へ。今回、見学できた蔵は一般の方の私財。ふだんはほぼ公開されない、暮らしの場へぞろぞろとお邪魔させて頂いた訳です。カメラでの撮影も「学びということで」と特別に許可してくださり、まさに有ることが難しい機会に恵まれました。所有者様、ありがとうございます。
座敷蔵、文庫蔵。絢爛たる仏壇を祀った仏蔵。凝らされた工法技法、壁の仕上げ、造作、汲めども尽きない川のごとし。そして地元河北町には、優れた左官が気を吐いて仕事をしています。蔵のことは、いつでもすぐに相談できる。何より心強いではありませんか。
紅花商の邸宅を修復し開設された紅花資料館も見学しました。最上川の舟運と北前船で上方に運ばれた紅花が、この地方にもたらした富と文化の粋です(内部展示は撮影禁止)。
白壁に守られた文物の前に立ち、文化としてのスケールを時間まで含めて俯瞰した気がしました。幻視ではありません。その多彩多様さ、奥行きの深さ、足元に地層のように積み重なる発祥からの物語、受け継いでさらに高く積み上げることができる確かさ。そうして文字通り築き上げてきた文化が、さて私には、農・林・漁の生産と流通に伴っていたという点こそ「肝の中のキモ」に思えるのですが、どうでしょう。翻せば、現在の生産や流通は厚みの豊かな文化をあまり伴っていないように見えませんか。だとしたら、それはなぜでしょう? 稼ぐことばかりで文化から目が離れたせいもあるのではないの?
そんな問いも、違う土地違う土の、違う塗り壁があるどこかから、左官会議シンポジウムはまた投げかけていきましょう。ご参集、ありがとうございました。
見学会「日本の壁をみる」。最上紅花で栄えた村上地方にいまも残る旧家を拝見しました。
屋敷内にある「仏蔵」。息を呑む荘厳さで、ただただ感嘆。
代々名主をつとめ、紅花商として財を成した堀米邸を修復整備した紅花資料館も見学しました。
寛永6(1853)年に建てられた武者蔵。幕府の命によって組織された農兵隊の武器の倉庫だったそうです。
今野等 Hitoshi Konno
1967年、宮城県石巻市生まれ。高校卒業後、左官である父の下、住宅や公共施設、蔵など、宮城、福島などを中心に仕事をする。父の師匠は陸前高田出身の気仙左官の流れをくみ、父も気仙左官のやり方で町場の仕事を行う。金華湾の海藻を煮て漆喰を塗るなど、材料からつくる方法も父から受け継いだ。2011年、震災の年、今野左官店として独立。日本左官会議理事。
「自分の家を新たに建てた時、新建材は使いたくないと思って内も外も木摺り、全部漆喰仕上げにしました。自分で外を観ていい、中を観てもいい。他の人に観てもらっても『これいいね』って言われました。そんな仕事の過程を写真に撮って、子供たちに語り告げるようにするのはどうかと思ってやったらみんな喜んでくれて。設計屋さんも喜んで次々提案してくれて今につながっている。それこそが地元の左官じゃないかとアドバイスしてくれた人が居まして。津波で何もなくなったけど、腕はある」
大類勝浩 Katsuhiro Ohrui
大類工業代表取締役。工業高校建築科卒業後、昭和62年、大類工業入社。左官工事はもとより、外壁改修、特殊左官、塗り床工事など幅広く手がける。日本左官業組合連合会青年部山形県支部長をつとめるなど、地域の左官のリーダー的存在でもある。
「一緒に飲んだ塗装屋の社長さんに、『塗装屋は厚み的に0.何ミリ〜1ミリの世界。左官屋は10ミリとか50ミリの世界。左官屋は手業でゾル状のものをゲル状に形造れる唯一の仕事だ。うらやましいよ。俺がもし左官屋なら今のようなことにはしておかない』と言われた。左官屋には可能性がたくさんあると思っています」
※ゾル=形をなさない液体状のもの/ゲル=形を保てる半固体状のもの。
原田正志 Masashi Harada
東北芸術工科大学環境デザイン学科卒業後、設計事務所勤務を経て左官の道へ。京都「しっくい浅原」で修業中、多数の社寺や数寄屋建築に触れる。その後山形に戻り、家業である原田左官工業所に入る。一般住宅から文化財まで幅広く手がけている。日本左官会議準会員。
「左官の仕事は自分たちの生活圏にあふれています。今日の実演にもあったが、山形のような日本海側では川に生えているヨシと篠竹で木舞を編んでいきます。関西は割竹のようですが、山形の日本海側ではあまり竹が採れず、身近にある素材で下地を編んでいました。施主さんと、設計屋さんと話をし考えながらしてゆく仕事が楽しい。土塀を足元から土でつくりました。山形は雪が降るので凍害のおそれがあり、足元からというのはなかなか勇気が要ります。しかし強度を上げて使えるようにしました」
浦上稔晃 Toshiaki Urakami
岡山県生まれ。父の下、主に住宅の現場で修行。30歳くらいから、左官という仕事の奥深さ、魅力に惹かれ、独立後も各地の親方衆の現場で学び続けている。「微力ながら、伝統の再生と継承、新しい技術の創造を目指して参ります」。日本左官会議正会員。
「自宅の庭を掘ったら赤土が出たので、それを使って倉庫の土間を三和土にしました。ふだんから素材を集めていますが、たとえば土をふるいにかけたりという工程が大好きで。ピザ職人がピザ窯の躯体を造って、その上を塗って何か造ってと言ってきました。必ず割れますよと話しましたが、それでもいいからということで、提案したのは大津磨き。3センチは塗りましたが、やはり割れました。日々想像しながら施工しますが、それを越えていつも発見があるので、職人は学ぶしかないというのが実感。大きい壁、やりにくい場所などの現場が職人を大きく育てると思います。講習会だけではとても学べない」
川口正樹 Masaki Kawaguchi
三重県大台町生まれ。高校卒業後、フレスコ、彫刻などを得意とする会社に30 年勤め、2006年に独立。店舗、住宅、お茶室などの数寄屋も多く経験。久住章親方の「川久」の現場にも参加した。若手と仕事をともにして、愛知地域のこれから担う若い人たちに、技術や知識を受け継いでいってもらいたいと考えている。日本左官会議理事。
「今でも木舞を掻いて荒壁からつけて土で仕上げる仕事を毎日やらさしてもらっています。それらは真壁ですけれども、若い設計士さんたちはデザインにこだわって大壁にしたいとかいう要望もあり、話し合うべき課題がデザイン性に出てきていると感じます。薄塗りに傾斜する要因はいろいろあると思いますが、ちょっとずつ向き合っていかなければならない。そういう中で薄塗り工法も応じていて、いい表情は出せると思います。そういう経験を経て、自分たちも考えていかなきゃだめなんだと思います。樹脂はなるべく使わないように考えなければいかん」
竹内昌義 Masayoshi Takeuchi
東北芸術工科大学教授、みかんぐみ共同主宰。1962神奈川県生まれ。89年東京工業大学大学院修士課程。95年みかんぐみ共同設立。2000年東北芸術工科大学デザイン工学部助教授、08年より同教授。環境やエネルギーの調和を目指しエコハウスの普及、啓発に努める。15年山形に3者によるリノベーションを行う地域再生の会社株式会社マルアールを設立。代表作に「伊那東小学校」、「愛・地球博トヨタグループ館」、マルヤガーデンズリノベーション(いずれもみかんぐみ)など。
「できるだけエネルギーのかからない『エコハウス』を山形で造りました。地域にある木を使い、製材して出たゴミはチップとかペレット化し燃やしてエネルギーにする。木も左官仕事の漆喰なども、肌感覚にすごくあいます。が、日本は木の文化といいながら、家屋内で木が割れるとクレーム来るのが現状で、接着剤で固めた集成木材が使われやすい。自然のものだから割れて当然、塗り壁にしてもちゃんと施工しても割れたりする。割れたらだめと工務店側から要求されるのは、実は消費者側の問題でもあります。山形をはじめ東北には古い建物がいっぱいありますが、それをどうやって使っていくのかが求められています。壊したら二度と復活できない。遺しながらどう使うかがすごく大事で、新しい息吹を入れていかないといけません」
小林隆男 Takao Kobayashi
滋賀・守山生まれ。父も左官で、地元の現場で修業を積む。土の素晴らしさを世の中に広めていきたいと「天下布土」を かかげ、多分野の人たちとも積極的に交流、ワークショップやボランティアの経験も豊富にもつ。駄洒落や冗談を飛ばしつつ、裏方も引き受けて、後進を親身になって指導する、ヒューマニティ溢れる親方。日本左官会議副議長。
「石巻市の雄勝地区で採っている赤土で、市内の土蔵を修復しています。地のものを使うこと、それを記録として残すこと。我々左官はただ壁を塗るだけではなしに、人の心の中にも壁を塗っているのではないかと思います。もっと足元にあるものに気づかなければ。愛知、岩手、石巻などで残された蔵、直されず朽ちる蔵を観てきました。これから何を遺さなければならないのか、遺すためには何が必要かということを考えていきたい。遺す目的も大事なのでは。技術の前に精神的なものをもっとはっきりとさせて尽力をしないとなりません。左官はその一翼を担う存在です」
挾土秀平 Syuhei Hasado
飛驒高山生まれ。30 代までは野丁場の左官として大きな現場も仕切る。2001年職人社秀平組を設立、自然から得られる素材による物語性のある独創的な壁を次々に発表。個展、執筆などにも才能を発揮し、海外でも活躍。2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」の題字やタイトルバックも制作。日本左官会議議長。
「4〜5年前くらいから高校や中学校にも講演に呼ばれます。100人に『左官て知っていますか?』と聴くと5人くらいしか手を挙げない。左官て言葉自体が浸透しなくなっていると感じてきました。左官はどんな砂利でも植物の繊維でも、自然にあるいろんなものをみんな織り交ぜ取り込んで表現する自由度があります。洗ったり掻いたり、なでたり繊維をあてたり、手を変 え品を変えて仕上げ技がものすごく多彩にある。曲面とか三次元とか大壁面を数人数十人のチームで1枚に仕上げる力も持っています。地域性を最も知っている仕事が左官。共通の講習会なんかしない方がいい。仕事は混ぜ合わない、それが武器になる。他の工業製品と違う点だと思います」
司会・宇野勇治 Yuji Uno
愛知生まれ。名古屋工業大学大学院博士後期課程修了。地域の「土」と「風」を活かした居心地のいい建築をつくることを目指して設計と研究を行い、教育者としてもユニークな指導を展開。職人の気持ち、数値に現れづらい人の感性を大切にしつつ、現代のシステムとの接点を探り、前向きな着地点を提案する。日本左官会議総務理事。