秋田県増田町には、究極の左官技術といわれる黒漆喰磨きの内蔵(うちぐら・主屋の中にある土蔵)をもつ家が多く残っています。
しかし時代は移り、職人を取り巻く状況もライフスタイルも急速に変化してきました。
せっかくの宝もこのままでは傷みにまかせ、失われてしまうことが危惧されています。
増田町では、年に1度、内蔵を一般公開する「蔵の日」を設けていますが、2013年の第8回目にはプレイベントとして「黒漆喰磨きの集い」が開かれ、蔵の所有者たちが集って左官職人、小林隆男さんと共に黒漆喰磨きシンポジウムが行われました。
2014年の第9回目には、左官職人を対象とした実演指導も加わりました。
そして2015年にはこれを拡大、日本左官会議の共催でシンポジウムと講習会が開かれました。その様子をお伝えします。
◎第一部 シンポジウム「先人の想いを未来へ継承するために」
◎第二部 黒漆喰磨き実演講習
開催日 | 2015年9月27日(日) |
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会場 | 旬菜みそ茶屋 くらを(旧勇駒酒造 宝暦蔵) 秋田県横手市増田字中町64 |
入場料 | 500円 先着100名 |
主催 | NPO増田地域活性化ステーション |
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共催 | 横手市/公益社団法人日本左官会議 |
協力 | 増田蔵の会/増田まちなみ研究会/増田町建設技能組合 |
助成 | 全国税理士共栄会文化財団 |
幾重にも段をつけた扉の部分。面白(めんじろ)と呼ばれる仕上げ。
右が土蔵。鞘(さや)という建物で全体が覆われている。
佐藤又六 増田蔵の会副会長
鈴石博実 増田まちなみ研究会/一級建築士事務所 (株)鈴石設計代表取締役
松本正 松本左官工業代表
黒田稔 NPO増田地域活性化ステーション理事長/(有)黒田工務店 代表取締役
高橋大 横手市長
挾土秀平 岐阜県・(公社)日本左官会議議長/職人社秀平組
原田進 大分県・(公社)日本左官会議副議長/原田左研
久住章 京都府・(公社)日本左官会議顧問
小林隆男 滋賀県・(公社)日本左官会議副議長/江州左官土舟=司会
加藤勝義 NPO増田地域活性化ステーション事務局
シンポジウムは蔵の中で行われた。話しているのは高橋大横手市長。
定員100名の会場は満員で、みな熱心に聞き入っていた。
東北で活躍中の若手左官職人を対象に、小林隆男さんをはじめ、パネラーの左官が黒漆喰磨き(平面のほかに出隅面が2枚、そのほかに大津磨きが1枚)を指導した。
講習の前にあらかじめ下地のパネルが用意された。出隅面の下地は、藁縄をぐるぐると巻き付けた木を平行に並べ、雄勝の荒壁土を塗り、赤土と砂を混ぜて中塗りしたもの。そのほかの下地はラスにモルタルを塗り、土で中塗りしたもので、それぞれ乾かしてある。上塗りの材料は当日午前中に用意された。
まずは、養生を行い、中塗りの上に白い漆喰(石灰・中塗り土・寒水意志・城かべつのまた・白雪スサ)を塗りつける。そしてちょうどよい頃合いをみはからって黒ノロ(水・石灰・油煙・むしろふのりを混ぜて漉したもの)を塗りつけ、鏝で力を込めて磨く。さらに手ごすりして光らせる。
ムラ無く塗りつけ、磨くのは至難の技で、タイミングが難しい。先輩左官が見守るなか、実演者は汗を掻きながらひたすら磨き、一定の効果をあげていた。
*黒漆喰に関してもっと知りたいという方は、日本左官会議までお問合せください。できる範囲でお答えいたします。
力を入れて鏝で磨く。ムラにならないようにするのが難しい。
出隅面のパネル。角の部分は数ミリ白いままで残して、黒漆喰磨きを施す。
私は土蔵について語らない。
土蔵を語ることは風景を語ることになるから。
風景を語ることは、いまはない郷愁の風景について語ることになるから。
痛みなしに郷愁の風景を語ることは出来ないから。
はるか過ぎ去った日の土蔵の光景が浮かんで来る。まだ、幼いもの心のつくかつかないころのことだ。正月、教師をしていた父親の実家に帰ったとき、陽当りのよい土蔵の戸前の前に敷いたむしろの上のザブトンに座って、祖母がホーローの白い洗面器のお湯に浮んだまゆから糸くりで糸をひいている光景をみた。子ども心に、ここは暖かいにしても、日がなこんなところに座ってただ独り糸車をまわしていて楽しいのだろうかと、さぞ退屈だろうと……。
いま思えば、風よけで囲まれた土蔵の戸前のひさしの下で冬の陽にあたり、鳥の声を聴き、ときたますぎる人影に吠える犬の声を聴きながら、冬枯れの庭を眺めながらゆっくりとゆっくりと糸車をまわしていることは、幸せなことではなかったかと、いまはそう思う。
昨年秋、日本左官会議の主催するシンポジウムがあって、秋田の増田町に土蔵をみにゆく機会があった。
東北の土蔵は、有名な福島会津喜多方の土蔵の街並みや、唐獅子土蔵で知られる岩手の花泉、秋田の西馬音内の座敷蔵などかなりの数をみて、その黒磨きの素晴らしさ、神技といってもよい観音扉の五重の掛け子など数えているが……。
地元でみた内蔵、それは間口三間、奥行五間はある大きな二階造りの土蔵で、いまも家の人たちによってたいせつにされていた。畳を敷き、ウルシの塗られたその座敷蔵は、大切な客人を泊めもてなすだけではなく、人生の晴れの日の祭りごとから、誕生と死まで、その座敷内で行われたのだという。土蔵の中でうぶごえをあげ、土蔵の中で死をみとられたのだと……。まだ、土蔵が本当にわれわれの暮らしの中で生きていた時代、土蔵の時代があったのだ。
そんな話を当の座敷蔵の中で聴いたとき、遠い少年の日の土蔵の光景が郷愁とともによみがえった。しかしそれはやがて、暗愁となって私を滅入らせたものだ。
土蔵を再生するのもいい。土蔵を残すもいい。土蔵の左官術を学び直すのもよい。されど土蔵の時代は過ぎ去ったのだ。過ぎ去った時代はとりもどすことは出来ない。奈良時代の寺院の漆喰の時代、戦国の安土桃山の草庵茶室の土壁の時代、明治の建築装飾の人造石塗り、土蔵造りの時代……それは、左官が時代の風景を生み出した時代だったのだ。戦後の大量生産と工業化の時代、左官の仕事の量はいっとき増えはしたが、左官が時代の風景をつくることなく終わろうとしている。いま、左官の仕事は建築の品質や見栄えを左右することなくシャドウワークとなってしまったのだから……。
私は土蔵について語らない。
奈良の漆喰の時代、安土桃山の土壁の時代、明治の建築装飾の人造石塗りの時代、土蔵の時代……われわれの歴史の中のその三つの時代のあと、左官が時代の風景を生み出す第四の時代。
……それはなにか土蔵とは別なものだ。それがなにか私は知らない。ただ、左官がみずからの仕事に、左官術への、塗り壁への熱意を失わないのならば、現在の高度科学技術工業社会も永遠につづくわけではないのだから、左官の第四の時代がないとはいえない。熱あるところに、風も人も集まるのだから。